BSアニメ夜話「エースをねらえ!劇場版」

・・・小林七郎だ!すげぇ!
しかもこの小林さん、すんごい出崎をほめるほめる!こんなに出崎をほめてほかの仕事に影響しないのか、と心配してしまうほどのほめ方、そして番組の論客どもにも負けない分析をしてみせる!
正直これだけでも今回見た価値はあった。前半は小林さん置いてきぼりかな〜?って思ってたら、ちゃんと見せ場を作ってあるし、言うことも面白いし。
正直、漫画夜話の時は一部を除いて関係者を呼ばない方がより冷静に客観的にトークが進んで面白いと思ってたんだけど、アニメだと関係者の人数が膨大になるし、作業量の膨大さと携わる作品の変遷で漫画ほどの思い入れの強い人が減って客観的にトークできる人が増えて面白くなると感じた。
でも声優は呼ぶべきでないと思う。扱うのはだいたい人気作品なので、何度も色々な媒体で再演しているし、血肉になってるから思い入れの強さが半端じゃないため。


んで、ジョーの時と違って批難ムードがないので気持ち良く見れたのもあった。
「明日のジョー」と「エースをねらえ!」の世間での受け入れられ方の違いが見えて面白かったなぁ。「『エースをねらえ!』はアニメが前に出ている」という唐沢の発言があったが、逆にジョーは漫画と第1作目のアニメが基準なのね。ま、同じエースをねらえ!でも、「2」や「ファイナルステージ」は「TV版」「劇場版」とは受け入れられ方が全く違うのと同じか。
ジョーの時にもやった、出崎演出解説の新しい側面をやってくれたのも面白かった。
とにかくも出崎はどこまでも主観に入り込んでいく作り方で、主観のリアリティで構成されるとの指摘は非常に納得できた。ここら辺に「AIR」でブーイング食らった理由の一つがあるようにも思える。ギャルゲーって各キャラクターの主観の他に、「それを見ている私」の主観もあるわけで、下手すると各キャラクターに主観がなく「それを見ている私」の主観しか存在しない場合がある。対して、出崎はキャラクター全てに強烈に主観があり、「それを見ている私」の主観は各キャラクターの主観に溶け込むようにしか存在しておらず、冷静に独立していない。ここに齟齬があったのかもしれない、出崎とファンのニーズとの。
また、「それを見ている私」の主観的な視線が「萌え」なのかもしれない。作品にのめり込まず極めて冷静に傍から眺める視線だ。


しかし、今回のアニメ夜話は面白かった。語れる人がちゃんと語って、語れない人は要所要所できっちり面白いことを言って余計なことは言わない、という漫画夜話の黄金パターンに近い感覚があった。やっぱ、語れる人が3人以上いると締まる。エヴァの回ときたら冷静に語れる人があまりにも少なすぎて、目も当てられない惨状だったもんなぁ(^^;




追記
「それを見ている私」自体は以前からあったものだと思うが、現在の如き隆盛にはコンピューターゲームの一般化が要因だと思える。
ゲームは様々なジャンルがあるが、基本的にプレイヤブルにするために客観視点で表示される。同じく資格・聴覚を動員する映像作品に対して、人物の主観への感情移入を促進する仕掛けに乏しい。また、その場の表現に制限がある故に想像力を動員させることでメディアの数々に比べて想像力を働かせる機会が減るので、想像することによって促されていた感情移入の度合いが下がる。
結果的に感情移入度が下がることで、作中の熱を共有しない冷静な「それを見ている私」というものが形成されがちになるのではないかと思うのだ。(一方で、冷静な「それを見ている私」とは別に「それに萌える私」が作中の熱と直結しない熱を持って形成されることになるように思える)


最初はあまり萌えってわからなかったのだが、フェティシズムなものなのではと思うようになった。キャラよりメカで考えると分かりやすいように思える。
戦車などのその性能や外見など(簡単には強さとか)から見出された「主観(とでもいうべきもの)」に勝手に感情移入して、模型やらを動かして脳内戦闘を繰り広げたりするのが非フェティシズムで、模型をできる限り精密にさせ(自分でも他人でも)、それをガラスケースに入れてニヤニヤ眺めているのがフェティシズムだろう。非フェチはその性質が重要だが、フェチはその性質を宿した「もの」が重要なのだ。
これって「好き」と「萌え」に置き換えられないか。つまり、「萌え」は非常に即物的な感情であり、容易に性欲に結びつく。それにも関わらず「萌え」と「性欲」の結びつきが否定されがちなのは、「萌え」というものの認識の温床となった世界が「性欲」をタブー視する世界であったこと(故に「萌え」の対象として、いかにも性欲を喚起しがちなものが想定されていない)と、「萌え」という感情の担い手の中で性欲が無自覚なものである故ではないかと考える。
しかし、「萌え」の担い手たちは「萌え」と「性欲」の近しさを自覚すべきだ。「萌え」は無自覚な性暴力になりうるし、それのみに依存した視線は人対人においてまともな社会関係の構築を阻害する。
だが、ま、その由来はどうあれいつのまにか「萌え」が去勢され一般化されてしまった昨今ではどうしょうもないことになってしまってるのかな。


何か自分が「エロい」を連発する状況の説明がついた気がするw