エマを読んでるとスーッと性欲が引いていく。・・・ま、それでも尽きはしないのだけどw
それにしても面白くてのめり込む作品でも、性欲が引いたり満ちたりする作品があるのが不思議。
その差は何なんだろう?
男漫画・女漫画っていうのも無いではないと思うけど、結構例外多いし・・・


エマなんて作者的には煩悩丸出しで赤面、ってなことだし読者としてもそこら辺敏感に感じ取れてニヤリ、な人もいるとは思うんだけど、俺としてはそんなにモロだしという感じには感じられないんだよね。理屈ではわかるけど。
俺が、いかに普段、煩悩丸出しな上にそれが作品に齟齬を来すレベルで、しかもあざとい作品にばかり触れてるか、ということになるのかな?
もう一つ、煩悩のあり方自体が違うんだとも思うんだけど。そこから先はまったくわからないので、どうしようもない。


女性の描くエロ漫画が男性に実利が少なかったりする、っていうのとも関係はあるとは思うんだけど、それだけで語れる問題ではないよなぁ。
「煩悩」と「エロ」は必ずしもイコールにはならないからちょっと上の文章は飛んでるな。男性の場合、結構「≒」なんだよね。そして「萌え」も。対して、女性の場合、「煩悩」と「萌え」は「≒」たれるけど、「エロ」はもっと狭いカテゴリーに入る気がする。あくまで「気がする」。


とりとめもねぇなぁ(^^;


仮説
自分はエロは好きだけど嫌い。
余計なエロが混じってくることに我慢がならない。半端にエロを混ぜるならきっちり混ぜてほしい。エロ目的作品でないならハリウッド映画レベルが適量。
ある種の女性作品の方が好きなのは、女性的なムラっけ(きっと使い方は正しくない)の受容効率が悪いため、そういうものに気を取られず作品に没頭できるため、という部分もあろう。
加えて、男性的なムラっけ(これまたきっと正しくない)にしても、それをきっちりとセーブした作品作り、もしくはきっちりと制御下において方向性をバラけさせずに作品に昇華できるような作品作りのできている作品に惹かれる、という傾向が強い。前者が好きなアニメ監督として公言してる人々の作品なら、後者は「くだらねぇ」が褒め言葉となるような作品群ということになる。
ここで重要なのはある種の女性作品というのが、ターゲットを女性のみに絞ってない作品であること。女性向けになるとやはり女性的なムラっけ(もちろんきっと正しくない)に頼った作品作りになってきてしまうと経験と想像から思うので。流石に昔の人みたいに根本から理解不能ってことはなくて、ストーリーや出来事なんかは理解できるんだけど、受容効率が悪い自分にとっては何が面白いのかよくわからない、っていうことが非常に多いのである。(希有な例では犬夜叉なんて女性向けに絞ってないのに女性的なムラっけ(ry前回で書かれてる気がするのだが、どうか)




きっと世間のオタクのリテラシーってものにかなり取り残されてるんだろうとは思う。きっと世間の男性オタクの女性的なムラっけ(ryの受容効率の平均は格段に自分の遥か上を行ってるのだろう。広義のガンガン系作品等を見るに。
ただ、自分の捉える女性的なムラっけ(ryに似て非なるものも、その陰に隠れてずいぶん幅を利かせている気がする。↑に感想を書いた作家の作品とかかなりそういう匂いがするし、エロゲーなんかもそう。
本来エロと一致しないはずの女性的なムラっけ(ry、言うなれば妄想力・煩悩とその結果生み出されるもの・ツボが、エロと不可分なものになっているところが特徴だろう。例えるなら、女性的なムラっけ(ryをエロで煮染めたというか(男性的なムラっけ(ryに個人差はあれエロは最初から含まれる)。
この第三のムラっけ(ryとでも言うべきものの高い受容効率を持っている者はそうでない者に比べて、女性的なムラっけ(ryの受容効率が高いことが考えられる。しかし、女性的なムラっけ(ryを女性が受容する場合とは、似て非なる反応が起きる。「マリみてエロい!」というのは端的な例なんじゃないか。(自分は全然エロく感じない)


この起源は女性的なムラっけ(ryを受容しようと努力したオタク男性の歴史があったように思える。つまり、分かりやすい自分の感覚で受け止めることで受容しよう、という無意識の方法論が発生し広まったのではないか、ということ。ここでオカマ的に男性の身でありながら女性の心になって受け止める方法と、男性が男性のままで自分の身に引き付けて受け止める、という二種の方法ができたことになる。(きっとこの中間は多々あろうが象徴的に示す)
初めは前者が多かったと想像される。そもそも古くは女性的なムラっけ(ryが多く含有されるようなものは女性向けメディアだけであったし、そこに手を出す男性はある程度マニアックな限られた層に限られただろうから。ただ、そういう男性が送り手に回り、女性的なムラっけ(ryが男性向けメディアに混入するようになると、女性は別としても、あくまでも男性向けメディアであるため男性は従来の枠の中で受け止める。ここに第三のムラっけ(ry発芽の土壌があると考えられる。女性的なムラっけ(ryは男性メディアの中である程度までは勢力を伸ばし一般化するが、やはり根本的な性差に基づく感覚から完全に一般化はし得ない。ただし、偶然に受け手が非常に限られたオタク的教養の平均値が格段に高いような人々であったり、女性的なムラっけ(ryを当たり前に享受する女性の割合が多い場合、話は別であり、女性的なムラっけ(ryの含有量は増え続ける。そして、そのメディアを享受する男性の女性的なムラっけ(ryの受容効率も上がっていく。しかし、それは男性向けメディアという経由地をとったが故に、女性による受容とは似て非なる形、男性の身に引き付けての方法で、である。
そして「男性の身に引き付けての方法で」女性的なムラっけ(ryを受け止め消費するのが当たり前の世代が発生し、そのような受け止められ方をすることが織り込み済みの元々は女性的なムラっけ(ryを作品に込めるようになって、第三のムラっけ(ryというものは確立したように思える。そしてこれは女性の側にも逆輸入ともいえる形で広まり、新しい集団を形成しているようにも思える、が、そこのところはよくわからない。


「女性的なムラっけ(ry」の繰り返しで読み辛いね。ただ、これを「煩悩」の一語に置き換えちゃうと、男性が読む場合性的なニュアンスが強くなり過ぎて、どうもね。
結局どちらもエロが染み渡ってる「第三のムラっけ(ry」と「男性的なムラっけ(ry」がどう違うのかというと、エロに直接は関係ない面白さの感じ方、注目の仕方、重視の仕方みたいなものが、「第三のムラっけ(ry」は「女性的なムラっけ(ry」に非常に近く、「男性的なムラっけ(ry」とは違うものになっている、という点。


ああもうあたまがまわんね